富士登山競争

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 毎年7月25日、「富士登山競争」という大会が開かれる。朝7時半に富士吉田市役所前をスタートし、山頂めざしてひたすらかけ登るという単純明解な「競争」だ。ただし、制限時間はある。正午までに山頂に着かなければならない。標高差3000メートル、距離21km、気温差21度、登れば登るほど空気が薄くなる、まさに鉄人レース*2。何も知らない登山客が、山頂目指して突っ走る集団に出くわして度肝を抜く(らしい)。ゴールしても山頂から五合目までは自力で下山する。こんな大会に参加する物好きはいるもんか!と思われそうだが、毎年日本全国から約2000人の馬鹿が集う。
 私も昨年の第48回大会に、サロマ湖100kmを1月前に完走したばかりのA先輩とともに参加。馬鹿の一人になる。
 7時半、快晴、スタート前の緊張が胸を襲う。「バーン!」と鳴った瞬間、鳩の群れが飛び立つかのように皆一斉に走りはじめる。平地は最初の数百メートルだけ。「人生、楽だなと思ったら下り坂!」走る芸人の一人、上岡龍太郎*3の言葉が頭をよぎる。しかし、下り坂は用意されていない。そこからはゴールまで永遠の上り坂だ。朝御飯をたっぷり食べたせいで、横っ腹が痛い。まだ朝だというのに、照り付ける太陽が熱い。A先輩の姿ははるか前方に消え去った。
 練習の時に参拝し、湧き水を飲み、縁起をかついだ富士浅間神社の横を通り抜ける。「神様、私に力を分けてくれ!」心の中で叫ぶ。練習のペースでは正午に山頂にたどり着くことはできないのだ。中野茶屋、馬返しを通過。三合目からは山道になる。ここからは走るというよりは早歩きになる。それでも、少しでも登りが緩くなるとみんな走る。私も走る。時々、応援してくれる地元の人や登山者がいる。四合目、私は弱気になる...あと3時間で山頂に着くことができるのだろうか。すると、前を走っていたおじさんが「あとどれぐらいで五合目か」と地元の応援の人に聞く。私は、つい、「聞きたくない!」と叫ぶ。周囲の人達がどっと笑った。そうだ、一人じゃないんだ。
 五合目を越えると涼しくなる。その分、空気も薄い。六合目、見ず知らずのサポーターからスペシャルドリンクを分けてもらい、元気が出る。私は確かな手応えを感じた。「このまま行けば、正午に山頂にたどり着く。」
 七合目からは悪路と岩場が待っている。岩場を得意とるす私は、所々四つんばいになりながら猛然とスパートをかける。しかし、七合目から八合目まではとにかく長い。スタート時は重たかったお腹ももう空腹だ。ウェストポーチに入れていたようかんをかじりながら走る。体は限界まで来ていた。ただ、日の光に感謝し、声援に感謝し、五体満足に動く体に感謝し、ここまで来た自分を信じてひたすらかけ登る。八合目に着けば山頂までは一気だ。
 九合目、思いがけずA先輩の姿をとらえる。私は気付かれないように抜こうとするが、気付かれる。A先輩:『このままいけば12時には余裕で間に合うぞ!』 私は、間に合う!と聞いて、一瞬、力が抜けた。が、ならば4時間を切ってやる!とすぐに思い直した。前月のサロマ湖100kmマラソンの影響で両足をつったA先輩を後ろ目に、私は加速した。
 山頂が見える。あの山頂に着けば、あの山頂には別の自分がいる、そんな興奮が体をよぎった。あと100メートル、あと50メートル、あと10メートル、鳥居をくぐる、そこがゴールだった。その瞬間、感動が全身を走る。富士山から見下ろす下界では何でもできるという自信がみなぎる。そして、決してあきらめないことの大切さを知る。
 今年も、この感動を求め、また参加する。


参考データ(第48回富士登山競争)
山頂コース 男子 1706名参加、818名完走(47.9%)
      女子   74名参加、19名完走(25.7%)
トップタイム 2時間40分36秒
    筆者 4時間07分40秒(424位)

 

 

パソコンのデータ整理をしていたら、出てきました! 1995年の出来事で、職場の同期に頼まれてローカル社内報へ寄稿した文章です。自分にとっては少年期から抱えていた暗くモヤモヤとした中途半端コンプレックスを完全に払拭した大イベントでした。一方で、ダークサイドという別の暗いトンネルへ一歩踏み込んだ瞬間でもありました。
・・・賞状どこいったかな ^^;

 

*1:マップ画像はこちらから借用させていただきました。御礼申し上げます。

*2:鉄人レースとは本来トライアスロンのこと!適用が正確ではありません^^;  ちなみにA先輩はカナヅチ、私も海水で泳ぐのが苦手で、A先輩と私との間でトライアスロンの話は一度もありませんでした。

*3:ここに記事を置いたのは2023年のGW頃ですが、Wikipediaによると、5月19日にお亡くなりになられていました。血気盛んな頃の私に道を示していただいた影響力のある偉大な方でした。ご冥福をお祈りいたします。